日々の記録

生後8カ月でお迎えした柴犬なつめと暮らしています。アイコンは先代柴犬よもぎ(2007~2022)です。

「思い通りの人生なんて」の衝撃

古新聞、古雑誌の整理をしていたら、「思い通りの人生なんて」という文字が見えて、手が止まった。

そうだ、このコピーを見てこの雑誌買ったんだった。

 

昨年末、私はひどく疲れていた。仕事が忙しかったこと。新型コロナに加えてインフルエンザの流行で戦々恐々としていたこと。この二つが大きな原因だったが、他にもいろいろ重なった。そんなときスーパーの雑誌コーナーを何気に見ていたら、この言葉が目に入ったのだ。

暮しの手帖』最近読んでないなあ。パラパラと内容を確認して購入した。

思い通りにいかないのが人生。だから面白い、と言い切れるほど達観はしていない。ただ思い通りにいくことなんてそうそうなかったし、そんなもんだと割りきっていたつもりだった。なのに、いつの間にか思い通りにしよう、でも思い通りにいかない、というところで苦しんでいたのかもしれない。

しかも「思い通りの人生『なんて』」なのだ。この「なんて」の三文字のインパクトは大きい。思い通りになんていかないよね、ではないところにしびれた。

そんな境地にたてたらどんなに景色が変わるだろう。

そのときはそんなことを思っていた記憶がある。

 

あれから数カ月。

内容はどんなだったっけ?ともう一度開く。そうそう、画家のささめやゆきさんのインタビューでの言葉。

よくよく読んでみたら、どうやら思い違いをしていたみたいだ。

「思い通りの人生なんて」は、失敗から思いがけないもの、自分が想像していたものをはるかに超えたよいものが生まれる、ということだと理解した。

あのときも読んでいたはずだが、余裕がなくて内容が入ってこなかったのだろう。

確かに。そもそも私の中には「思い通りの人生」に「なんて」をつける発想がなかった。私の「思い」なんてその程度だ。たとえ思い通りにいったとしても、その程度のことしか起こらず、それを超えた何かには出会えない。

自分の思い通りが、自分にとっても人にとっても一番いいと思っていたということだ。そうとは限らないのに、なんという傲りだろうか。

 

思い通りにいかなかったら、よりよい出会いがあるかも。そんな心の持ち方でいられたら。

数カ月経ってようやく真意を掬い上げられたような気がする。