日々の記録

生後8カ月でお迎えした柴犬なつめと暮らしています。アイコンは先代柴犬よもぎ(2007~2022)です。

ワンルームで父と母を感じたお惣菜

冷凍庫を整理していたら、里芋を発見。冬に冷凍してすっかり忘れていた。こんな時期だけど、好物の里芋の煮っころがしを作る。

里芋と調味料を入れてぐつぐつ煮ると甘辛いにおいがしてきた。この瞬間によく思い出すのが大学生になって一人暮らしを始めたころのことである。

 

18歳の3月。卒業式も終え、周りは入学準備に追われていたころ、私の大学受験はまだ続いていた。

最後の最後まで粘り、進学先が決まったのは今でも忘れない、3月24日。入学手続きをして、次の日母と始発で上京して物件探し。しかし、こんな時期に探してももうほとんど埋まってしまっている。土地勘がない場所で時間だけが過ぎていき、焦りが募る。最後に入った不動産屋さんで、大学最寄駅から2つ先の駅にある、築20年のアパートにどうにか決めた。

そこは8畳ほどのワンルームで、ユニットバスと小さいキッチン付き、と紹介された。
小さいキッチンの内訳は、まずノートパソコンサイズのシンク。そのとなりに電熱線のコンロ。蚊取り線香のようにぐるぐる巻きになっていて、ところどころ錆びついていた。そしてその下に500mlのペットボトル3本でいっぱいになりそうな小さい冷蔵庫。案内してくれた不動産屋さんも、コンロと冷蔵庫はあまり実用的ではないですねえ、とはっきり言った。田舎に住んでいた私は軽くショックを受ける。これがキッチン・・・。思い描いていた一人暮らしの部屋とはだいぶかけ離れていた。しかし贅沢は言っていられない。そこに住む覚悟を決めた。

入学式前日、家族総出で引っ越し。引っ越し作業が終わると、次の日から学校が始まる弟は、父と一緒に帰っていった。
2人を見送り、母と近所のスーパーで塩や醬油などの調味料を調達。新しく用意した2合炊きの炊飯器で、ご飯を炊いておにぎりを作った。そして1階のコインランドリーで洗濯をした。
これまで家事というものを一切やってこなかったので、ご飯の炊き方、洗濯機の回し方、洗濯物の干し方を教えてもらったのだ。

翌日、母と入学式に出席。その後、帰る母の荷物を取りに一旦部屋に戻ることに。
そしてここで、これは都会の洗礼!?と思わず疑うような被害に遭遇した。
アパートの部屋前に到着。鍵を鍵穴に差し込もうとしたときのこと。
あれ?あれ?
何度やっても鍵が鍵穴口でとまる。鍵が入らない!?
不動産屋さんに電話。飛んできてくれた。どうやら鍵穴に接着剤が入れられたらしい。
家を空けたのは午前中の数時間。その間の犯行。
都会は恐ろしい。東京って怖い。
封印していたステレオタイプが大きな顔をして現れた。

どうにか鍵問題も片付いたところで、母ももう帰らなければいけない時間になっていた。
今日からひとりで生活するのか。そのつもりでいたけど、あんなこともあったし急に不安になってきた。
部屋がしんとする。涙がこみ上げてきて視界がぼやける。でも泣いたらだめだ。志望大学に落ちたときも「悲劇のヒロインぶるのはやめなさい」と一喝した母である。ここで泣いてはだめなのだ。
泣いていると思われないよう、止まらない涙をタオルで抑えるのに必死だった。だからしばらく気づかなかった。

えっ・・・
お母さん泣いてる・・・?

母の涙を初めて見た。母も泣いていた。それを見た瞬間、もう止めようと耐えるのはあきらめた。

お互い目を腫らしていた別れ際。「ゴールデンウィークには帰っておいで。身体に気をつけて」と母は帰っていった。
母がいなくなった後も止めどなくこぼれ落ちる涙をぬぐいながら、とりあえずゴールデンウィークまで1か月がんばろう。そう決心した。

入学式から約2週間。どうにかこうにか生活していたが、食事はお粗末だった。
朝はパンかシリアル、昼は学食。夜はご飯だけ炊いてお惣菜を買ってくる、のはまだいいほう。すぐに飽きてしまい、スナック菓子だけで済ませたり、ケーキを2個食べるなんて日もあった。
そして夜になると母に電話する毎日。
ある日の夜。いつものように電話をすると
「明日お父さんが出張で東京行くから、お惣菜持って行ってもらうからね」
「ほんと?明日は1限から5限まで授業だから、家にはいないけど」

次の日の朝、お米を研ぎ、夜に炊きあがるようにタイマーセット。今日の夜はうちのおかずがある!
夜、授業を終えてわくわくしながら帰ると、座卓の上にたくさんのタッパーが所狭しとならんでいた。
地元の醤油で煮た里芋の煮っころがし、この時期スナップエンドウが入る我が家独自の卯の花かつおぶしや昆布からとった出汁が効いた青菜のおひたしや根菜の炊き合わせ、など。「年寄りみたいな子」と言われて育った私の好物ばかり。
夕食時、家の食卓にはいつもたくさんの品数の料理が並んでいた。品数が多いと気づいたのは後からで、よそのお家の食卓を知ってからだった。
私はゆっくりたくさん食べるのが好きで、毎晩いつまでも食卓にいた。
この日も早速電話した。お礼を言うと、母は、私がいなくなっても変わらない量をつくるからいつもおかずが余るのだ、と言った。

そして、このお惣菜を運んでくれたのが父である。このときは感謝こそすれ、その大変さまでは想像できなかった。
東京駅や羽田から往復するとかなり時間をとられる。さらに往復すると宅急便の値段も電車賃とほぼ変わらない。そして、手荷物がひとつ増えるごとに移動はぐんと大変になる。
これらは実際に帰省したり、自分で荷物を送るようになって初めて気づいた。
それなのに、おそらくちゃんと生活をできているのか心配になって部屋を見に来てくれたのだろう。シンクに置きっぱなしにしてあった食器もきれいに洗われていた。

自ら望み、選んだ進学にもかかわらず、ホームシックになっている。その状況が情けなかったが、やせ我慢すらできないほど心細く、ぴんと張り詰めた毎日だった。
そんな日々の中、ひとり暮らしのワンルームで母と父を感じた食事。ひとり暮らしだけどひとりじゃない。
今にも吹き飛ばされそうな、ペラペラに薄くなってしまった心にも栄養が届き、元気が出た食事だった。